六代渋草柳造浮絵桜図六角鉢
商品解説
江戸末期を祖とする渋草柳造窯。180年続く陶家・戸田家の家訓として「伝承は衰退、伝統は革新の連続」という言葉が残されています。六代・宗四郎氏が取り組んだ独自のテーマは「陶画の中に日本画、邦画を取り込む」ということです。伝統的な紋様や形式に頼らず、日本画の美をどこまで取り入れるかにこだわって生み出された代表的な作風に「桜」があります。五代目も桜を描いていたようですが民藝ブームの時代のせいか、かなり荒々しいタッチだっという。それを見た六代は真逆を行き、繊細な描き込みで「自分の桜」を表現しました。
この作品は春の淡い空気のような斑紋釉をベースに、満開の垂れ桜が描かれています。風に垂れる様なんともが美しい。桜の花のシベ一本まで神経が込められた圧巻の出来映えには息を飲むしかありません。瑠璃釉ベースと一対になれば「昼桜・夜桜」の対比が楽しめます。共箱・共布付き。落款:六代柳造
関連読み物ページ:「渋草柳造窯盆器を味わう」
渋草焼(しぶくさやき)と柳造窯(りゅうぞうがま)
江戸末期の1841年、ときの郡代・豊田藤之進が尾張から陶工を招いて「渋草ヶ丘」という地に半官半民の窯を開かせた。良質な陶石が発見され、苦心の末に磁器焼成に成功。加賀九谷から絵付師を呼び寄せて、五彩・赤絵・染付の優品を作ります。この最初に呼ばれた尾張の陶工が、陶祖・戸田柳造でした。
幕末には「飛騨九谷」と呼ばれ全国に名を馳せますが、戸田柳造(1865)の死、江戸幕府の終焉(1867)によって支えを失い衰退を余儀なくされます。その後明治11年(1878)、地元の事業家・三輪源次郎をはじめとする有志によって経営が引き継がれ、再興。再び名絵付師を招き、九谷、有田、京都、瀬戸、美濃などの手法を取り入れて多岐に渡る製品を作り始めます。その後、明治政府、後藤象二郎などの関わりのもと、勝海舟翁の命名により「芳国社(後に芳国舎)」となり、パリ万博への出品などにより、渋草焼は世界的な知名度を得ることになる。
明治18年(1885)、「芳国社」の熟練工・松山惣兵衛ら3名が工房を離れて独立。陶磁器両方を手がける窯として新たな活動を始めます。やがて松山惣兵衛が二代目戸田柳造を襲名。以降「渋草焼柳造窯」は陶祖・戸田柳造から連なる伝統を踏まえつつ、新たな渋草焼の世界を模索しながら現在に受け継がれています。
※現品限りの商品です。
※当店では実店舗での販売も行っているため、在庫の反映がリアルタイムではなく売り切れている場合があります。その場合は、申し訳ございませんがキャンセルさせていただくことをご了承下さい。
関連カテゴリ
小鉢